病蛍 番外編




 ―……思えば

 思えば私は昔から臆病者なのだった。



  ■



 【幻想郷縁起】…稗田阿求とかいう里の人間が書いた本だそうだ。
 その中にある妖怪図鑑には私―…リグル・ナイトバグの項目も存在する。
 私の容姿については人間と大して変わらないとあり(…しかも「幸いなことに」なんて前置きつきで)
 更に注釈をたどると「人間の形を取る事が、退治されにくくする事には必要なのだろう」とある。
 …これは、まぁ、当たっている。 私が思うに、蟲は世界中のどの生き物より擬態が得意な生物だ。
 聞いた話じゃ魚なんかも相当らしいけど、私自身は見たこともないし蟲が一番としちゃって問題ないよね。
 木肌に化け、枝に化け、葉に化け、他の生物に化け、中には他の生物の排泄物に化ける者も少なくはない。
 そうして背景に紛れることで、正体を偽ることで、極力危険を遠ざける。
 遠い昔にご先祖様が選んだ生き方が理由で(外骨格がどうとか慧音が言ってた)私たちはあまり大きくはなれない。
 体が小さいってことは、その分 他の種族より力が弱いってことだ。どうしても力以外の強みが生きるために必要になる。
 その強みのうちの一つがこの「擬態」だ。要は外敵に見つからなければ不要な戦闘は回避できる。
 もしくは見つかったとしても正体がばれなければ無事に済む可能性は高い(無毒なのに毒があるように見せたりね)
 そして、蛍の妖怪である私―…リグル・ナイトバグも擬態という危険回避方を採った蟲の一匹なのだった。

 人間は簡単に蟲を潰すけど、人間を潰すことは滅多にない。




 私には生まれつき妖の素質があった。
 蟲を操る程度の能力も今ほど強力ではなかったけれど幼虫の頃から持っていた。
 自我とか智慧とか、そういうものも今ほどではなかったけれど(今もそんなに頭は良くないけど)あったと思う。
 そのお陰もあって餌を獲るのに苦労したことはないし(他の幼虫たちを…ちょっと使わせてもらってた)
 他の水棲昆虫に襲われるということもなく(…トンボのヤゴなんかに食べられちゃうこともあるんだよね)
 順調に育った私は仲間たちと一緒に蛹になるため陸地に上が…………………らなかった。

 情けないことに、私は怖かったのだ。

 私が生まれ育った場所は人里を流れる小川だ。
 どうも外から迷い込んだ人間は「蛍といえば山の澄み切った川」なんて想像をするらしいんだけど…
 幻想郷では人里にもたくさんの蛍が飛んでいるし、それが普通だとみんな考えているはずだ。
 蛍は里山に暮らす蟲。人にとって身近な蟲の一つだもんね。
 外の世界の里には川が流れてないのかしら?田んぼのない人里なんて存在するのかしら?

 …それはさておき。 そんな環境に生まれた私は当然のように人間のことを見て育ったのだった。
 人の子にとって蟲は丁度良い遊び相手のようで、春の川原を子供たちは蝶を追って駆け回っていた。
 そうして楽しそうにしていたのに、蝶の幼虫を見た子供が発する言葉は「気持ちが悪い」ときたもんだ。
 大抵は興味が無さそうに幼虫から離れるけど、酷いときは…………あまり思い出したくはない。
 私はそんな光景を水際から何度か見た。普通の蟲の視力では見えないものも、幻視の力は見せつけてくれた。
 石の陰から出て行けば、水の中から出て行けば、私もあの幼虫と同じ目に遭うのではないかと思うと怖かった。
 普通の蟲ではない私は蛹化のタイミングすら自分でコントロールできてしまった。
 春雨の中を次々と上陸していく兄弟たちを石の陰から見送り、羽化を見守り、その乱舞を水中から見上げていた。

 それにしても、生まれて初めて迎えた夏は「どうしたことだろう?」と思ったっけ。
 仲間たちが飛び交う時間になると人間が川辺に集まってきて歓声を上げているんだから。
 大人も子供もいた。男も女もいた。いろんな人間が仲間の光を嬉しそうに追っていた。
 普段なら悪ガキにダンゴムシを投げられて泣き出す女の子でさえ、その小さな手に蛍を包んで笑っていた。
 そんな人々の様子から、蝶と同じように蛍もまた人間からのウケが良い蟲であることを私はなんとなく理解した。
 …その一方で握り潰された仲間がいたことも私は知っているんだけれど。




 ところで、人間の怖いところは蟲を殺すことに理由がないことだと思う。
 蟲の天敵は多いけど、鳥も獣も生きるためだから仕方がない。蛍だって餌になる貝類がいなきゃ生きていけないしね。
 それに蟲同士で喰い喰われ…なんてことも日常茶飯事だ。こんなこと気にしていたら生きていかれない。
 だけど人間は蟲を食べるでもなく(食べる場合もあるけど)、身を守るためでもなく、「気持ち悪い」という理由で殺しちゃう。
 これでもまだマシな方で、もっと酷いと蟲を見たら機械的に叩き潰す。理由なんてない。そこにいたから潰すらしい。
 彼らのルールでは自分たちにとって得にならない者は殺していいってこと? とんでもない話だ。
 で、これも酷いと得になる者であっても「蟲だから」という理由で殺される。 どういう神経だ。

 ―…蛍の繁殖シーズンが過ぎて水辺の賑やかさも落ち着いた頃、私は水底でそんなことを考えていた。
 生まれてから一年。その頃には妖怪らしさも増し、おぼろげだった自我は確固たるものへとなりつつあった。
 その芽生えた自我は「この理不尽な状況をなんとかしたい」と言って私を突き動かし始める。
 生来の臆病さが足を引っ張ったものの、次の年の春に私は甥っ子や姪っ子と一緒に上陸を果たすのだった。
 そして、無事に土繭を作り蛹化した私は仲間たちと一緒に羽化をし…………………なかった。

 我ながら本当に情けない。

 蛍の光に歓声を上げる人間が多くいる一方で、やっぱり「蟲だから」と平気で潰せる人間がいる。
 そんなことを思い出しては殻を破るのは怖いとしりごみする自分がいた。
 幼いながらも妖蟲の力を持った私の土繭は丈夫で外敵を退けられるし、閉じこもっていれば安全ではある。
 そうしてグダグダと思い悩んで幾数年。…一体何年間を蛹のまま過ごしたか私は覚えていない。
 妖怪の持つ時間の感覚ってゆっくりだから、今思えば大した期間ではないんだろうけど…蛍としては長すぎだ。

 そんなある夏、私は夢を見た。蛍になって飛ぶ夢を。…私は元から蛍なんだからこの表現は少しおかしいけど。
 とにかく、私は一匹の雄蛍になって夜の幻想郷を飛ぶ夢を見ていた。
 それとも雄蛍が私になっている夢を見ていたのかな。胡蝶の夢とかいうやつ。
 さて、夢の中を飛ぶ私の目にはたくさんのものが飛び込んできた。それは水の中から見る景色とは全く違った。
 自分以外の蛍、他の蟲、広がる景色。それから、人間。こちらを見て頬を紅潮させる幼い少女の姿。
 …単純なものでそんな光景を見た私は表へ出てみたくなっていた。
 なんだっけ、偉い神様もそんなことをしていなかったっけ。天の岩戸の伝説とか、なんとか。
 もしかしたら先に羽化を済ませた雄たちが私を呼んでいたのかもしれない。…これはさすがに自意識過剰?
 まぁ、そんなところ。いつまでもこんなところに居られないぞってことくらい、本当は分かっていたしね。
 その翌日に私は羽化を決意し、頃合を見計らって縮こまった体に力を入れた。




 私には一つうまい考えがあったのだ。「人間が怖いのなら、いっそ人間に紛れてしまえばいい」と。
 人間は簡単に蟲を潰すけど、人間を潰すことは滅多にないということを私は知っていた。
 あいつらに化けてしまえば不要な争いは避けられると思った。
 妖の力を持って生まれた自分にはそれが出来る。生きるために使える手を使わない手はない。
 幸い、里の傍で暮らしていた私は人間がどんな姿をしているかよく知っていた。
 記憶している人間の姿と、私が持つ性質とが交じり合って少しずつ形を成す。
 他の雌蛍たちと一緒に地中から這い出した一人の少女。それが私―…リグル・ナイトバグだった。
 一足先に羽化を終えていた雄蛍たちがようやく目を覚ました雌たちへ向けて合図を送る。
 「妖怪ではあるけれど私もちゃんと蛍だよ」と、私も大きく息を吸って、光と一緒に吐き出した。

 それにしても、そこが里の近所で本当に助かった。何せ羽化したての私は素っ裸だったのだ。
 交信のついでに深呼吸をして落ち着いた私は、川面に映った自分の姿を確認して慌てた。
 人間は服を身につけているものと知っていたからね。…あれは深夜でなかったら危なかった。
 こっそり取り込み忘れの洗濯物を拝借して、悪戦苦闘しつつ身につけて。
 蛍らしく日が昇ると草陰に身を隠した。そして、そこで初めてこの擬態のデメリットに気づく。
 仲間に比べると体が大きいので隠れるのは一苦労だぞってことだ。



  ■



「…ついでに人型の妖怪は目立つから巫女にどつかれやすいというデメリットも最近発見した」

 …と、ぼやいてから私は一息ついた。
 遠くで唸る吹雪が森の木をざわめかせている。窓は不安げにガタガタ鳴っていた。
 ちらりと見やるが窓は曇っていて外は確認できない。この調子だとかなり寒いんだろうなぁ。
 屋根と壁どころか暖炉まである棲家の有り難味を噛み締める瞬間だ。
 向かい側に腰掛けた白黒の人間―…霧雨 魔理沙が空になった湯飲みにお茶を注いで手渡してくれた。

「はは…。 しかし、なるほどねぇ。妖怪の生い立ちにもいろいろあるんだな」

「そんなの当然でしょう。…それで、宿賃くらいにはなったかしら」

 ひょんなことから冬の間だけ魔理沙の家に居候させてもらうことになった私。
 宿賃代わりに雑用を手伝う約束をしたんだけど、家主の最初の命令は「暇だぜ。何か面白い話をしろ」だった。

「あぁ、なったなった。…阿求に売れば食費くらいにはなる」

「ちょ…ッ!? 勘弁してよ、こんな情けない話を流されたら……」

「冗談だぜ」

 …冗談に聞こえないから困る。
 全く、居候の身という弱みがなかったらこんな話あんたにだってするもんかーってのに。
 そういえば稗田阿求の本には人間の英雄(英雄?)の紹介もあり、魔理沙もそこに掲載されている(…英雄??)
 それによれば魔理沙は実家と絶縁状態にあるんだそうだ。
 どういう経緯でそんなことになったのか、訊いてみたいとは思うんだけど口にする勇気は無い。
 訊いた途端に表に放り出されそうな気がしたし、下手をしたらスペカで吹っ飛ばされるかもしれないし。

 あぁ、それに―………

「ところで、リグル。…やっぱり人間は嫌いか?」

 …と、考え込もうとした私を魔理沙の声が現実に引き戻す。
 それはこちらの様子を窺うでも無く、何の気はなしに呟いただけ……そんな感じだった。
 うん、そりゃ、まぁ、ねぇ、あんな話をしてたらそう思われても仕方はない、のかなぁ。
 そんなことを考えつつ、私はあっさりと首を横に振っていた。

「手放しで好きだとは言えないけどさ…嫌いじゃないよ? だって蛍は人の傍らで生きてきたんだ」

 変わり者の河童たちのように「人間は盟友!」なんて思っちゃいないけど。
 それでも人間に対する愛着のようなものを、私は確かに持っていた。
 多分、人間が蛍に対して何らかの愛着を持っているのとおんなじに。
 そうでなかったら今頃は「人間なんて私が滅ぼしてやるー!」なんつって意気込んでいたかもしれない。
 幻想郷の人間を皆殺しなんて物騒で危ういことはおっかない大妖怪や巫女が決して許さないだろう。
 だけど、私がその気になれば見せしめに何人もの人間を蟲に殺させることが出来るはずなんだ。
 そうしないのは、そうする気にならなかったのは、人間が嫌いじゃないからだ。

 人間に、嫌いにならないでほしいからだ。

 蟲だって疎まれて蔑まれて嫌われるより、好きでいてもらった方が嬉しい。
 大好きだなんて言われなくてもいい。でも、ドロドロした感情をぶつけられるのは、とても痛い。

「蛍だけじゃないよ。人間の傍らにはいつも蟲がいるんだ。
 人間には私たちを嫌う者が多いけど、人間を嫌っている蟲は少ないのよ」

 魔理沙は今度こそ神妙な表情で「あぁ」とか「うん」とか言いながら頷いて、黙った。
 …私はこの気のいい人間に嫌われたくないなぁと思う。
 だから、彼女の「過去」には怖くて触れることが出来ない。
 不用意に踏み込んだらそれだけで突き放されてしまうような予感がするから。
 その代わりに彼女の「今」には出来る限り踏み込んでやろう。
 少しでも仲良くなれたらいいな、なんて妖怪らしからぬことを考える。
 いいんだ。妖怪としては間違っているかもしれないけど、私としてはきっと正しいことだから。

「あーあ、こんな辛気臭い空気にしちゃって!話す予定もないこと喋らせるからよ。
 今週分の食費にしたって高すぎるわ。帳尻はどこかで合わせてもらわないと。
 そんなわけだから今夜のご飯はおかずを一品増やしてちょうだいね」

 無遠慮な言葉にどことなく気まずげにしていた魔理沙が顔を上げて苦笑いした。

「そんなこと言っていいのか? それを来週分の食費にでも回せば楽になるのに」

「いいのよ。私はそんな先のことまで見据えられる性分じゃないの。 あ、ご飯は大盛りでね」

「……あー、やっぱり叩き出してやるかなぁ」

「わっ、わっ、ごめんなさい、うそうそ、調子に乗りました!」

「嘘だぜ」

 …嘘に聞こえないから困る。
 だけど、私の言ったことは本当に「嘘」だ。本当はずっとずっと先の私たちの姿を見据えている。
 人と蟲との間にこんなくだらないやり取りがあることが当たり前である幻想郷を夢見ている。



  ■



 ―……思えば

 思えば私は昔から臆病者なのだった。
 そんな臆病者が精一杯の勇気を出して人間の領域に踏み込んだ。
 たったそれだけで何かが大きく変わるわけじゃないだろうけど…
 それはきっと大切な一歩なんだと、渋々夕飯の支度を始めた魔理沙の背中を見ながら思う。







戻る